金戒光明寺の見どころ

吉備観音(重要文化財)

当寺の千手観音は、奈良時代の学者吉備真備が遣唐使として帰国の際、船が遭難しそうになり「南無観世音菩薩」と唱えたところ、たちまちその難を免れることができました。 真備はその時、唐より持ち帰った栴檀香木で行基菩薩に頼み観音さまを刻んでもらいました。 この縁起によりこの観音さまを吉備真備に因み『吉備観音』と呼んでいます。

元は吉田中山の吉田寺に奉安されましたが、江戸時代の寛文八年(一六六八)に吉田寺が廃寺となったため徳川幕府の命により、金戒光明寺へ移されました。 霊験あらたかで聖武天皇が勅願所とお定めになられてからは歴代天皇の御信仰篤く、殊に宮中に於ける御懐妊の節には、勅使を立てて御安産と肥立開運の祈願をなされ安産守護の本尊として知られていました。

江戸時代中期以降は民間信仰として、吉備公が二度遣唐使として中国に渡り観音さまの御守護により無事帰国したことより「道中守護」「交通安全」と「諸願成就」の御利益があると信仰を集めています。 この吉備観音は、半丈六(二m六十㎝)の大きなお像で、鎌倉時代の文献にある京都七観音(革堂・清和院・吉田寺・清水寺・六波羅蜜寺・六角堂・三十三間堂)の一つに数えられ、また平安末期、後白河法皇が西国三十三所巡礼に代わるものとして定めた洛陽三十三所観音霊場の六番にもなっています。


吉備朝臣真備 公 持統九 (六九五)?~宝亀六(七七五)

奈良時代の公卿で学者。父は吉備(岡山県)の豪族出身の下道朝臣右衛士少尉下道圀勝といい母は楊貴(八木)氏で下道氏は吉備地方に勢力を誇った地方豪族吉備氏の一族でした。 真備は、霊亀二年(七一六)八月二十日、二十二歳のとき、第八次遣唐使の留学生に任命され、他には阿倍仲麻呂、僧の玄昉(げんぼう)らがいました。 霊亀三年三月、遣唐使船出航。押使多治比県守、大使大伴山守、副使藤原宇合。真備は玄昉と共に十八年間唐に留まることになりました。

天平七年(七三五)三月二十五日、遣唐大使多治比広成・玄昉らと共に帰国。 同年四月二十六日、唐礼百三十巻・暦書・音階調律器・武器・染色・織物・刺繍陶磁器各種を献上し、この頃正六位下に昇叙され大学助となりました。 以後、聖武天皇・光明皇后の信頼を得て昇進を重ね天平十八年十月十九日、吉備朝臣を賜姓され従四位上右京大夫に進みますが、藤原仲麻呂にうとまれ、天平勝宝二年(七五〇)筑前守に左遷されました。 しかし、翌年の天平勝宝三年に遣唐使の入唐副使として入唐し大明宮含元殿で玄宗皇帝に拝謁。 二年後の天平勝宝五年帰朝の途に就いた真備等を乗せた遣唐使船が屋久島に漂着、天平勝宝六年一月、帰国。同年二月、同じ船団で唐より来日した鑑真は東大寺に戒壇を設け、聖武上皇らに戒を授けられました。

真備は、天平宝字八年造東大寺長官・天平神護元年勲二等・天平神護二年中納言から大納言に昇進し十月には道鏡の法王就任に伴い右大臣に昇進しました。 神護景雲三年二月、称徳天皇、右大臣邸に行幸。正二位に昇叙されました。 宝亀六年(七七五)十月二日薨去八十一歳でした。『刪定律令』を編纂し著書『私教類聚』を残したといわれています。

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